Column
2025年12月9日
ベトナム中部、トゥボン川の穏やかな流れのほとりに位置する古都ホイアンは、その歴史的な深さと保存状態の良さから、「東南アジアの宝石」あるいは「生きた歴史博物館」と称されています。この街の最大の魅力は、16世紀から19世紀にかけて国際貿易港として栄えた黄金期の街並みが、ほぼ手つかずの状態で残されている点にあります。特に、かつての日本人町と深く結びついた来遠橋(日本橋)は、ホイアンが育んできた多文化共生の精神を今に伝える揺るぎない象徴です。
ホイアンが国際的な貿易都市「フェイフォ(Faifo)」として誕生した背景には、特異な地理的条件がありました。この街がトゥボン川の河口付近に位置していたことは、海上貿易の拠点として極めて優位に働きました。トゥボン川は、ベトナム中部の広大な内陸部と東シナ海を結ぶ重要な水路であり、外海から比較的容易にアクセスしつつも、川を遡上することで内陸の豊かな産物を効率的に集積することができました。また、外海から少し奥まった場所にあったため、季節風や外敵の攻撃から船を守る天然の良港としての機能も果たしました。
この地の利により、内陸で産出される貴重な香料、木材、象牙などの一次産品が、中国や日本、ヨーロッパから運ばれてくる絹や陶磁器などの工芸品と交換される、物流の結節点としての地位を確立しました。しかし、この河口という立地の優位性は、後述する衰退の歴史において、川の環境変化という避けられないデメリットとなって跳ね返ってくることになります。
さらに、ホイアンを含むベトナム中部の沿岸地域は、歴史的に南方のチャンパ王国と北方の大越王朝という二大勢力の境界地帯に位置していました。政治的な支配が不安定な境界地域であったことは、皮肉にも国際的な商人たちにとってはメリットとなり、特定の勢力の強い規制を受けずに自由な貿易活動を行うことができる「中立港」としての地位を築くことができました。紀元後2世紀頃からこの地域を支配していたチャンパ王国は、海上交易に長けており、その交易ネットワークがホイアンの国際化の土台となったことは重要です。
ホイアンの近くにはチャンパ王国の聖地であるミーソン遺跡群が存在し、この地が古くから文化的な深さを持っていたことを示しています。このように、ホイアンは、大国の緩衝地帯という特性と地理的な優位性を活かし、特定の勢力に偏らない国際色豊かな港として、16世紀の黄金期に向けて準備を進めていたのです。
16世紀から17世紀にかけて、ホイアンは「フェイフォ」として国際的な知名度を確立し、黄金期を迎えました。この時期、ホイアンの港には、中国(明、清)、ポルトガル、オランダ、そして日本といった世界中の商人たちが集結しました。最も大きな影響力を持ったのは中国商人であり、彼らは陶磁器や絹織物などを持ち込み、会館を建てて独自のコミュニティを形成しましたが、ホイアンの歴史において、日本との関係は極めて重要で特筆すべき点です。
17世紀初頭、徳川家康によって奨励された朱印船貿易が最盛期を迎えるに伴い、多くの日本人商人が東南アジア各地に進出しましたが、ホイアン(フェイフォ)はシャムのアユタヤと並ぶ最も重要な拠点でした。
歴史的な記録、特に朱印状などの分析から、最盛期のホイアンには数百人規模の日本人が居住し、強固な日本人町を形成していたことが推測されます。彼らは、日本の銀や銅などの産品と、ベトナム産の生糸、絹織物、香木、砂糖などを交換する中継ぎ役を担い、東アジアの貿易ネットワークにおいて決定的な役割を果たしました。
角倉了以や茶屋四郎次郎といった京都や大阪の大商人が朱印船貿易に関与し、ホイアンに代理人を置いていたことも、この地の経済的重要性を示しています。しかし、この繁栄は長くは続かず、1635年に徳川幕府が鎖国政策を完成させ、日本人の海外渡航や帰国が厳しく制限されるようになると、日本人町は徐々に衰退し、多くの日本人が現地社会に同化していったという歴史を辿ります。
この日本人町の存在を今に伝える最も重要なモニュメントが、来遠橋、通称「日本橋」です。この橋は17世紀初頭(一般的には1593年頃とされることが多い)に、日本人町の商人たちによって、運河をまたいで建造されました。
当時の日本人町と中国人の居住区の間には小規模な水路があり、来遠橋は、この地理的・文化的な隔たりを越えて両コミュニティを結びつけ、円滑な貿易と交流を促進するという明確な目的を持って建てられました。その建築様式は、多文化共生を視覚的に示す稀有な例です。橋全体が屋根で覆われた「屋根付き橋」という様式は、日本の橋の建築様式に由来し、橋の両端には日本の陰陽五行説に基づく猿と犬の像が配置され、災いを避ける守護の役割を担っていました。
一方で、湾曲した屋根瓦やベトナム語の扁額、そして内部に祀られた水の神(北帝鎮武)の祠は、ベトナムや中国の信仰と融合した要素であり、来遠橋が単なる建築物ではなく、日本人とベトナム人の技術と信仰が融合した、極めて文化的価値の高い「絆」の象徴であることを示しています。この橋は、後にベトナムの20,000ドン紙幣のデザインに採用されるに至り、ホイアンの歴史と多文化共生の精神を象徴する、国民的なモニュメントとしての地位を確立しています。
国際貿易港として華々しく栄華を極めたホイアンですが、その繁栄は不可逆的な物理的要因と政治的な変遷によって終焉を迎え、衰退の歴史を辿ることになります。しかし、この衰退こそが、ホイアンの街並みが16世紀から19世紀の姿をほぼそのままに留めるという「奇跡の保存」をもたらした、逆説的なメカニズムとなりました。
ホイアンの衰退の第一の物理的要因は、街の生命線であったトゥボン川の環境変化でした。トゥボン川の上流からの土砂の供給と、季節的な洪水の繰り返しにより、河口付近の海底や川底には大量の土砂が堆積し続けました。この堆積によって港湾部の水深は徐々に浅くなり、18世紀後半から19世紀にかけて、世界的に大型の帆船や汽船が貿易の主流となる中、喫水の深い大型船がホイアンの港に入港することが困難になりました。
大規模な貿易船の接岸が不可能になったことは、ホイアンが主要な国際貿易港としての機能を根本的に失うことを意味し、国際貿易はより水深の深い港(後にダナン港が台頭します)へと完全に移転していきました。この物理的な変化は、ホイアンの経済的基盤を崩壊させる決定的な要因となりました。
さらに、ホイアンの衰退を決定づけた第二の要因は、ベトナムにおける政治・経済の中心地の移動です。18世紀後半から19世紀初頭にかけて、グエン王朝がベトナム全土を統一すると、グエン王朝はホイアンの北方約50kmに位置するフエ(Hu?)を都と定めました。フエが政治の中心となったことで、ベトナムの政治、文化、経済の中心は完全にフエへと移り、ホイアンは政治的な中心地から外され、港湾機能も失った結果、国際貿易の舞台から完全に降りることになりました。これにより、ホイアンは地方の小都市へとその地位を大きく低下させ、大規模な資本が投下される動機が完全に失われました。
この経済的・政治的な衰退と、それに伴う開発の停滞こそが、「都市の凍結」という形でホイアンの街並みを保存しました。他の東南アジアの港湾都市が、植民地時代や近代化の波の中で、古い建物を壊して道路を広げたり、現代的なコンクリート建築を建てる必要性に迫られたのに対し、ホイアンにはそのような再開発を行う経済的な余裕も、政治的な必要性もありませんでした。
19世紀から20世紀にかけて、ホイアンは「時代に取り残された」状態となり、その結果、16世紀から19世紀の木造家屋や石造りの貿易関連施設がそのままの姿で残されたのです。現代に至って、この衰退による隔離という歴史の逆説こそが、世界に類を見ない歴史的な価値を生み出していると再評価され、ユネスコ世界遺産登録へと繋がることになりました。
ホイアンの街並みが持つ歴史的および文化的な価値は、国際的に高く評価され、1999年にユネスコ世界文化遺産に登録されました。この登録は、単に古い町並みが残っているからという理由ではなく、特定の厳しい評価基準を満たしたことによるものです。ユネスコがホイアンを世界遺産として認めた主な理由は、「東南アジアの交易都市としての面影」の完全な保存と、「異文化が融合した独自の都市景観」の創造にあります。
登録基準の一つである「東南アジアの交易都市としての面影」の完全な保存は、ホイアンが、15世紀から19世紀にかけての東南アジアの国際貿易港の建築物と都市計画を、ほぼ無傷で保持している唯一の例であるという事実に裏付けられます。
当時の裕福な商人の家屋、例えば「タン・キーの家」などや、倉庫、波止場といった貿易関連の施設が、当時の機能と様式を保ち続けていることが、過去の生活と経済活動を現代に伝えています。また、「異文化が融合した独自の都市景観」は、中国、日本、そして後にヨーロッパからの建築様式や都市デザインが、ベトナム独自の文化と調和して共存している様子を具体的に示しています。特に、来遠橋(日本橋)や、中国人コミュニティの会館(福建会館など)は、異なる文化を持つ商人たちが、争うことなく調和している状態で生活し、共通の経済的利益と文化的な尊重に基づいて協力していたことを証明する貴重な好例です。
ホイアンの真の価値は、異なる文化圏の要素が単に並列して存在するのではなく、一つの都市空間の中で自然に融合し、独自の多文化共生の形を築き上げた点にあります。中国風の会館は、豪華な装飾と建築様式で中国南方建築の伝統をベトナムの地に根付かせ、来遠橋は日本の建築技術とベトナムの信仰が融合した文化的な境界を繋ぐシンボルとなりました。
さらに、フランス植民地時代の影響を受けた黄色い漆喰塗りの建物や、西洋の古典的な様式を取り入れた家屋も、古いベトナムや中国の家屋と混ざり合うように存在しています。これらの多様な様式が、一つの小道に沿って並び、時代を超えて共存し続けている都市景観は、ホイアンが、経済活動を通じて人種や文化の違いを超えて人々が協力し合い、多文化共生を現実の都市生活の中で実現していた歴史の証人であることを強く示しているのです。
ホイアンは、過去の遺物を静かに保存しているだけの場所ではありません。この町は「生きた世界遺産」として、現代も生活と経済活動の場として機能し続けていることに、その独自の意義があります。観光地でありながら、旧市街の中にも地元の住民が生活を営み、商売をし、日常の営みが続いています。
この事実が、観光客に対して、ただの過去の遺物を見るのではなく、「深い時間の流れ」を体感させ、この街の歴史が途切れることなく続いているという感覚を与えます。ホイアンのランタン祭りや、伝統的な食文化などは、観光客向けに作られたものではなく、地元のコミュニティによって大切に受け継がれている文化であり、その継承がこの街の生命力を支えています。
しかし、世界遺産としての名声は、現代のホイアンにメリットと同時にデメリットをもたらしています。観光客が増加することは、地域経済の活性化という大きなメリットをもたらしますが、その反面、観光地化による環境負荷の増大、伝統家屋の維持・修復コストの上昇、そして観光需要による地価の高騰など、住民の生活環境への圧迫という課題も発生しています。
伝統的な景観を維持しつつ、地元住民の生活と経済活動を両立させるという、持続可能な多文化共生のあり方が、現代のホイアンに課せられた極めて重要なテーマとなっています。この街が、過去の繁栄と衰退の歴史から学び、現代の課題を乗り越えていく過程そのものが、新たな歴史として刻まれ続けています。
結論として、ホイアンの歴史は、チャンパ王国の面影から、朱印船貿易を通じた日本との深いつながり、国際貿易の光、そしてトゥボン川の物理的変化とグエン王朝の政治的選択による衰退という影を経て、現代の世界遺産としての輝きに至るまでの、壮大な物語です。
この街が今に残すメッセージは、経済的な繁栄と衰退の波を超えて、異なる文化を持つ人々が、利益を共有し、信仰を尊重し合い、一つの空間で多文化共生を実現してきた歴史の記憶です。来遠橋(日本橋)は、日本人とベトナム人が結んだ友情と貿易の絆を象徴するモニュメントであり続けています。
ホイアンを訪れることは、単に美しい街並みを眺めること以上の価値があります。それは、過去と現在が重なり合う空間の中で、人間の多文化共生の可能性について思いを馳せる、極めて貴重な経験となるでしょう。ホイアンの精神は、国と国、人と人、そして時代と時代をつないできた、普遍的な調和の精神なのです。
現在のホイアンは観光地でありながら、
地元の人々の暮らしが息づく“生きた世界遺産”です。
旧市街の家々には、今も家族が住み、日常生活が営まれています。
サラトラベルでは、こうしたホイアンの歴史と文化を、ただ“観光する場所”としてではなく、“感じ、理解する場所”としてご案内しています。
旅を通じて、ホイアンという町が持つ深い時間の流れを体感していただけるはずです。
時を超えて残る「交流の町」、ホイアンは、単なる観光地ではありません。
そこには、人と人、国と国がつながってきた歴史の記憶があります。
日本人商人が築いた橋、華僑が建てた会館、そして、それらを受け入れ調和させてきたベトナムの人々の精神。
ホイアンの街を歩けば、過去と現在が静かに重なり合いながら息づいていることを感じるでしょう。
執筆者: Sara Hashimoto
ホイアンのツアーは