“スリランカの仏教遺跡”
2024年11月7日
スリランカは仏教遺跡が多いです。当然のことながらインドのすぐ南にあるセイロン島ですので、地理的にインド仏教が伝来するのも早く、アショーカ王が王子マヒンダを直接遣わして布教にあたりましたので、信仰もそれだけ強かったのでしょう。当時シンハラ王都のあったアヌラダプラは学僧が修学に勤しむ大規模な仏教都市でした。
しかし、時代はくだり、インド仏教が崩壊、ヒンドゥー国家のチョーラ朝の侵攻はセイロン島まで達し、シンハラ仏教も壊滅状態にありました。王朝は寸断され、国土が4分の1になるまでに追い込まれたと史書は伝えています。
アヌラダプラの仏僧らは、仏教が普及していたモンやバガンなどのインドシナへと渡っていき、上座部(南伝仏教)以前の仏教を支えます。
11世紀に入り、南部から王家の生まれであるビジャヤバーフ1世が反撃の狼煙をあげ、ポロンナルワを奪還、この都市を王国の首都とし、仏教を国是とし崩壊していた仏教の再興に力を注ぎます。当時インドシナで勢力を誇っていた新興国のバガンと強い協力体制を結び、大勢の僧侶を派遣してもらい、海外に渡っていた三蔵経典などをかき集め教義を再構築します。
この際、国外に国宝である仏歯が持ち出されたという記録がないので、現在キャンディにある仏歯は当時からセイロン島に現存する唯一の本物の歯だと認識されていたものと考えられます。
12世紀に入ると時の王パラクラマバーフ1世が海外進出を推進、軍事力を背景にインドシナ各国に仏教を布教します。この時さまざまな分派や諸派があった仏教を一本化し大寺派(現在の上座部)を本流と定め、バガンなどインドシナ各国にもこれを強制したために、結果的には大寺派がいまに至るまで単一の宗派として伝わることになりました。
小さな島国であるセイロン島は外敵にもろく、ポロンナルワも衰退、植民地時代もあってシンハラ仏教は何度も崩壊の危機に直面してきました。その度にタイ(シャム派)やミャンマー(アマラプラ派)から教義の逆輸入が行われて持ちこたえてきました。
このように、シンハラ仏教は衰退と繁栄を繰り返してきて、仏教の本筋である証しが仏歯だったのでしょう。仏歯を守るためにスリランカは遷都を繰り返し、その度に仏歯寺が建立されています。
古都キャンディがコロニアル建築がある真横に、仏教聖地として独特の雰囲気を持つのも、仏歯を守ってきたシンハラ仏教の強いプライドが奥深くにあるからなのではないかと思ったりもします。
スリランカ仏教史を俯瞰しますと、これらアヌラダプラ、ポロンナルワ、そしてキャンディと、三都が如何に重要な仏教遺跡であるかがわかり、その中間点に僧院であったシーギリヤとダンブラがあるのも、なにか歴史の必然だったような気がしてきます。
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