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“南伝仏教の本当の意味を考える”

 

2025年3月26日

 

いきなり余談ですが、ミャンマー・バガンにあるアーナンダ寺院は、第3代チャンシッター王が1105年に建立した巨大寺院ですが、当時既にスリランカ仏教が復活し、バガンとの交流が盛んだったにも関わらず、考古学的にはヴィクラマシーラ大学やソーマプラ僧院(バングラディシュの世界遺産)の後継寺院だと見られていて、各国で研究対象となっています。

また、アーナンダ寺院の尖塔が現存していることから、これらの寺院にもかつて同様の尖塔が存在しただろうと推測されています。
つまり、アーナンダ寺院はバガン式寺院というよりも、パーラ様式の寺院である可能性があるということです。確かに、2つの寺院に残る遺構と比べてもよく似ています。

実はバガンとヴィクラマシーラ大学の距離は直線距離にして1000kmほどしか離れておらず、インド仏教の瓦解とともに多くの仏僧がバガンへと逃れてきたものと思われ、実際アーナンダ寺院を建てたチャンシッター王はインドからやって来た5人の高僧を王朝に迎えたのだと伝わっています。

さて、本題に戻りますと、「南伝仏教」とはいうまでもなく、スリランカからインドシナ各国に布教され現在まで連綿とつながる上座部仏教(小乗仏教)のことですが、学校で習ったこの言葉は、“南伝仏教によって各国に仏教が伝わった”という意味でした。

ですが、スリランカ仏教もアショーカ王の時代に伝来したインド仏教がおおもとですが、一旦ヒンドゥーの侵攻により壊滅、バガンの支援のもと11世紀ポロンナルワ時代に復活しています。
そして、各国に仏教を伝えたのは12世紀のパラクラマバーフ1世です。言ってみれば、いわゆる“南伝仏教が伝わる”以前に、スリランカはバガンから仏教を逆輸入しているんですね。

さて、このパラクラマバーフ1世は、スリランカに諸派がはびこる中、古来の伝統を受け継ぐ大寺派に上座部を一本化して、それ以外を異端として排除します。そして、これをインドシナ各国にも強います。これが「南伝仏教」のことで、つまりは南伝仏教によって各国に仏教が伝わったというのはまったくの誤りで、語彙の使い方が間違っているわけです。

また、バガン以前にも、ミャンマーではピュー時代(スリクシェトラ/タイエーキッタヤー遺跡)に、カンボジアでは古クメール(サンボープレイクック遺跡の時代)、タイは最近かなり古い遺跡が発見されましたが、いずれもインドから直接仏教が伝播した形跡の残る遺跡が存在しています。
パラクラマバーフ1世にしても、はるか昔からあったアバヤギリ(無畏山)派などを排除して大寺派を正統と定めますが、アバヤギリ派ですらインドシナに布教されていた可能性もあるのです。

上座部仏教というのは、己の功徳によって涅槃を目指すものなので、あまり歴史的にどうとかというのは重視されないため、上座部史に関してもリンケージな考証がほとんどなされておらず、仕方がない点なのですが、本当なら「南伝仏教」という言葉が大乗仏教との対比によって意味するのなら、ただ上座部仏教(以前なら小乗仏教)とだけ教えればいいような気がします。

ちなみに、この大寺派ですが、各国の遺跡などを見ますと、多くの国ですんなり受け入れられたように見えます。中世のインドシナにはヒンドゥー国のクメール王朝の西はタイ人の国家が過渡期だったこともあるのかもしれませんが、バガン王朝がモン・タトゥン国を滅ぼし吸収してしまったことが大きいのかもしれません。

そのバガンでは、このスリランカの決定は、天地がひっくり返るような出来事だったようです。当時のバガンは上座部仏教が国民に浸透し、一説には“国土の4割が寄進された寺領になってしまい、王朝経済を圧迫して滅亡に向かうきっかけになった”とされていますので、スリランカが「大事派だけを正統とする。バガンもそれに従え」と強制したことで、大いに反発し、以前書いたスリランカ=バガン動乱なども起こるのですが、結局大寺派に落ち着き現在にいたります。

ということで、もし中学の教科書で「南伝仏教」という語句を教えるのであれば、“南伝仏教によってそれまで仏教が盛んだったミャンマー・バガンでは、大きな反発が起こり、その過程でスリランカとの間に軍事衝突が勃発するなど国を揺るがす事態となったが、次第に吸収され、現在まで脈々と受け継がれる一大宗教となった」というのが正しいのではないでしょうか。
ちょっとくどいですね(笑)。すみません…

 

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