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【スリランカ仏教史】“スリランカ=バガン動乱 (2)”

 

2025年1月25日

 

ミャンマー・バガン遺跡にはダマヤンジー寺院という巨大な仏教寺院があります。このパゴダは、悪名高いナラトゥー王が親兄弟を次々と殺し、自らも殺害されたために未完のままになったとされています。そのため、バガンの寺院としては珍しく、修復されずに廃墟に近い状態のまま佇んでいます。

このナラトゥー王暗殺について、ミャンマー史では「西からきた異人に殺された」あるいは「ポロンナルワの刺客によって暗殺された」という2つの説があります。ポロンナルワによる暗殺については、スリランカ史に記述がありますが、ミャンマー史学界では見解が分かれるところです。ですが、状況としてはぴったり符号します。

ビルマ史家ルースは、バガンは交易における権益をめぐりスリランカとの関係が悪化し、それに対し国力をつけていたシンハラ王朝が派兵、バガン王を殺害したとしています。 ですが、当時のシンハラ王は大王と呼ばれるパラクラマバーフ1世です。時はこの王が推進する宗教改革の真っ只中です。そして、ナラトゥー王が建てようとしたダマヤンジー寺院は、バガンにほぼ完全な形で現存するアーナンダ寺院とそっくりのインド様式で、実はスリランカが強制する新派(大寺派)を拒絶したのではないかと考えています。 ナラトゥー王の国交断絶宣言は激越です。「今後シンハラから訪れるいかなる船舶も上陸を許可しない。もし我が国の領土に踏み入れようとした場合には、金品没収のうえ船員らは皆殺しとする」と。ミャンマー側にはこの事件の記録が一切ありませんが、スリランカ側にこう記されているのです。

当時のバガンとポロンナルワの関係は、いわば兄弟国のようなもので、同じ宗門であり、非常に良好な関係を築いていました。ところが突如としてナラトゥー王の時代に国交断絶という事態に陥ります。 私はこれは、交易上のトラブルなどではなく、宗教上の対立であっただろうと思うのです。その理由に、パラクラマバーフ1世は、バガン王を殺害すると、すぐに兵を撤収させ、王を廃嫡しただけで元の良好な関係に戻るのです。そして、バガン仏教の最高位にある大僧正がスリランカへ渡り、大寺派の教えをバガンに浸透させることに努めます。その後もバガンの歴代の大僧正はスリランカで修学することが義務づけられ、ナラトゥー王の暗殺以降バガンで急速に大寺派が普及していくのです。

ところで、スリランカ史研究家の最近の論文に、殺されたナラトゥー王の王妃がパラクラマバーフ1世の一族の出身であったというものがあります。私はそのような記述を他に見たことがないので史実かどうか確認できていないのですが、もし本当だとすると、やはりポロンナルワ王朝に暗殺された可能性が高いのだと思います。

いずれにしても、バガン王朝史の大きな謎となっている事件であり、これを転機にシンハラ大寺派がバガンで広まっていった事実を考えると、歴史のダイナミズムを感じます。

もうひとつ、上座部史をけん引するポロンナルワとバガンですが、前回も少し触れたように、その建築様式や仏像などの伝統はまったく異なっています。この点も面白いのですが、不思議なことにナラトゥー王が築こうとしたダマヤンジー寺院には古いシンハラの仏像が1体あります。私の知る限りバガンにスリランカ式の仏像はこれ以外に見当たりませんが、この仏さん、はっきりとポロンナルワ時代の表情をしてるんですね。

何かすべてを物語っている気がするんですが、もちろん“なぜここにポロンナルワ時代の仏像があるか”はわかりません。ポロンナルワを訪れた方は、ぜひバガンに行ったらダマヤンジーのシンハラ仏像を見て行ってくださいね。歴史の壮大なロマンを感じることができるのではと思います。

 

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