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【スリランカ仏教史】“三蔵経を守る戦い”

 

2025年1月14日

 

1897年ミャンマーの古代都市ピューの遺跡にある、パゴダの地下室から20枚の金板が発見されました。調査の結果、4~5世紀頃つくられたと思われるパーリ仏典の一部であることがわかりました。パーリ仏典とは三蔵経のことで、仏歯とともに上座部最重要の経典です。こちらの金板が現存する世界最古のものとされています。

一方、スリランカに残るパーリ仏典でもっとも古いものは、5~6世紀のものとされています。異教徒の侵攻により経典もほとんど失われてしまいましたので、そのためかもしれません。この仏典がどこにあったのか定かではありませんが、11世紀にバガン王朝が送り届けた三蔵と同じものなのでしょうか。もしそうだとすると、バガンのアノーヤター王は、隣国モン・タトゥン国を滅ぼしてまでして奪った三蔵ですが、なんとお膝元のピューのパゴダに更に古いものがあったということになります。“探しものあるある”というストーリーですが、史実の面白いところですね。

さて、この三蔵経ですが、11世紀にはバガンが軍事力で奪ってスリランカに送り届けたわけですが、上座部が生き残るか否か、各時代で悲壮感を漂わせながら守ってきたものです。

「仏典結集」(結集=けつじゅう)という編集会議が歴史上何回か行われてきました。現在まで計6回行われたといわれていますが、第3回(紀元前3世紀)はアショーカ王が開催、その後第4回(紀元前1世紀)はスリランカのアルヴィハーラ石窟寺院で行われたとされています。 この第4回仏典結集の開催を伝えているものが、スリランカ歴史書のみであることから、本当に行われたのか疑問視する向きもありますが、当時戦乱や内乱、飢饉により上座部仏教界は荒廃し、アヌラダプラのマハーヴィハーラ(大寺)でも厳しい教えを守ることができず還俗する者が相次ぎ、当時のスリランカ王自身もアバヤギリヴィハーラ(無畏山寺)を建立するなど、上座部がまっぷたつに分裂し、崩壊の危機を迎えます。これを強く危惧した僧団はアヌラダプラから遠く離れたアルヴィハーラで経典を文字化する作業を行い、それまで口伝のみであった教義を“経典書写”という形で後世に残し、再興を期したのでした。

時代はくだり、1871年にビルマ・コンバウン朝のミンドン王が第5回仏典結集を呼びかけ、2400人もの比丘を集めてマンダレーで開催します。開明的な君主であった王は、バゴーなど下ビルマがイギリスの植民地になっていくのを目の当たりにし、このままでは上座部が廃れるといって、ビルマ崩壊を見越して各国の高僧らと教義の再確認を行うのです。そしてクドードーパゴダに仏典を729枚の大理石に彫り、石碑として残したのです(現在は世界記憶遺産になっています)。 その後王の憂えた通り、コンバウン朝は瓦解、ビルマは植民地となってしまいます。

つまり、第4回も第5回も、上座部崩壊を防ぐねらいで開かれているのです。スリランカでは、実際国内の僧団が壊滅してしまう経験を何度もしています。第5回目に関しても、仏典編集よりも、ビルマの仏教界はどうなるかわからない。その分あなたたちの国で信仰を堅固にし後世に伝えてほしい、という目的があったかと思います。

現在大勢の観光客を誘うスリランカの仏教遺跡ですが、こうやって当時の悲壮な思いを想像してみると、信仰と教義を守るために多くの苦労があったということがわかりますし、先人たちには敬意を表したいですね。

ちなみにアバヤギリ派は大乗上座部と呼ばれることがあるので大乗仏教と書く人がいますが、まったくの誤りで、上座部の一派です。12世紀に上座部を大寺派に1本化した際に分派とされ、異端扱いされたにも関わらず破却されずに仏塔が残っている事実を考えますと、吸収合併されただけで、同宗だと認識されていたということなんでしょうね。

 

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